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sumahoと一緒に…

yoppiの雑記ブログ

宿継場で栄えた扇町屋 入間市 歴史

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現在の入間市の大動脈といえば国道16号線と299号線である。

 

日光脇往還(千人同心街道)

まず千人同心とは、江戸幕府の職制のひとつで八王子に配置され、その任務は武蔵国と甲斐国の境警備と治安維持であったが1652年からは日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となった。

八王子~日光間の距離は40里(約160Km)で入間市扇町屋と二本木には宿継場が置かれた。道の左右に家々が立ち並び、短冊状の町割りになっていて、八王子千人同心や鷹匠といった幕府役人の通行の際には人や荷物を次の宿継場に送るために人馬を負担しなければならなかった。

 また、庶民も頻繁に行き交い、宿継場の村人達は旅人を目当てに商いや駄賃稼ぎをしていた。なかでも千人同心の宿泊・休憩場所に指定された扇町屋村は往来の賑わいによって町場として栄えた。

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千人同心街道の旅

 

在方商人の成長

町場としての扇町屋村の経済を支えたのは、多くの在方商人であった。彼らは農村から買い取った穀物や縞織物を市や店で売りさばき、その利潤を質屋稼ぎにあて富を増やしていった。幕末には外国貿易を行う商人もいた。

 

武州一揆

黒船来航から幕府崩壊にいたる時代の変動は村人達にも様々な影響を与えた。開港以来物価の上昇や年貢の増加はそれまで以上に村に貧富の差を生み出すこととなる。政局の変化とは幕府は皇女和宮の将軍家の嫁入りや長州征伐の通行に必要な人馬を要求した。戊辰戦争の際には官軍、振武軍双方が軍資金や人馬を強要した。これは入間市に限った話ではなく全国各地でこのような変化は起こった。

数々の負担に対して、困窮する村々は他村の農民と話し合い、年貢拒否の誓約を結んだり、人馬負担に対する嘆願書を提出するなど、さまざまな抵抗を試みました。

f:id:ayayuito_japan2012401:20160616213041j:image打ち壊し対象者一覧では繁田、長谷部、粕谷といった入間の錚々たる豪族の名前が並んでおり、とても甚大な被害を被ったようである。

 

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見にくくてすみません(._.)

唐傘連判状です。当時の仏子村と他村人と相談して150人の連名による誓約書で農民たちが領主に決死の覚悟で抵抗して様子が伺える。

 

明治維新から昭和へ

廃藩置県により入間県・熊谷県を経て明治9年8月に埼玉県に編入される。明治22年の町村制の施行、昭和41年11月1日に「入間市」が誕生する。昭和30年代までは農村地帯でしたが交通網の整備、工業団地の建設・区画整理の実施により都市化がすすみ街の様子は急速に変化していった。

現代になり日光往還は廃れ国道16号線や299号線にとってかわることになる。

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扇町

地名の由来:愛宕神社の神体が五本骨の扇であることからこの名がついたと謂われる。

 

ご視聴ありがとうございました。